ことばと世界とわたし

LOVE&ピース。

こんばんは。

北九州市八幡東区・えん療術所の井上尚子です。

 

各地の大雨で、避難されているみなさま、お見舞い申し上げます。

 

北九州は、梅雨空でありつつも、雨が上がる時間もあって。

今日の皿倉登山は、とにかく人が多かった!

梅雨の合間。とにかく今のうちに登っておこう、という、わたしのような方が多かったのでしょう。

 

さて。

映画「海獣の子供」を観ました。

いのちの根源に迫る映画だ!と聞きまして、これは、とりあえず観ておかねば、、と。

 

感想をひとことで言うなら、「怪作」。

たしかにいのちの根源を描いてはいるのだけど、なんというか、答えがない。

 

それもそのはずで、「一番大事な約束は、言葉では交わさない」とのキャッチフレーズ。

米津玄師さんの主題歌でも「大切なことは言葉にならない」とうたっている。

 

そう、ことばでの説明がないのです。

いや、全然ないわけじゃないんだけど、それ以外の「存在」そのものが大きすぎて、説明が入ってこない。

だから、観る人によって、感じることがちがう。

 

そして、「分かりそうだけど、なんだかわからない」「でも、なんだか分かる、、気がする」という居心地の悪さを強く残す作品でもありました。

 

ちょうど、数日前に

わたしにとってバイブル的存在の名著「わたしが治る12の力」(上野圭一・著、学陽書房)を読み直したところでした。

 

 

わたしの敬愛する上野圭一さんは、ホリスティックな医学を志す人なら、必ず一度は接していると思います。

ホリスティック医学界では、世界的に有名なアンドルー・ワイル博士の著書の翻訳をされている方と言えばお分かりでしょうか。

 

わたしは、ワイル博士の著書が大好きなのですが、

それは、上野圭一さんの訳が、とにかく丁寧で、物足りなくもなく説明しすぎでもない、ちょうどよい具合の日本語を選んでいて、すべてが腑に落ちるからなのです。

 

そんなことばの専門家、上野圭一さんによるこの著書から、いくつかの文章を抜粋してみます。

 

☆ ☆

 

「《わたしが治る》をテーマとするこの本が《ことば》について随所にふれるのは、《わたし》というものを構成している要素、つまり《わたしの成分》の大部分をしめているのが《ことば》であり、《ことば》が《わたし》をつくっているからです」

 

「そもそも《わたし》はどこにいて、どこからどこまでが《わたし》なのか」

 

「『自』と『他』を分けている境界は、《わたし》の《ことば》がつくりあげた幻想です。《いのち》の世界には《ことば》がなく、そこに存在するものはエネルギーとリズムだけなのです」

 

「私たちは『生』とはなにか、『死』とはなにか、『わたし』とはなにか、『世界』とはなにか、『世界』と『わたし』の関係はどうなっているのかといったことを《ことば》によって名づけ、《ことば》によって深刻な問題にし、《ことば》によって考え、その結果を《ことば》によって、『世界はこういうものだ』という、一定の信念体系の枠のなかに収納せずにはいられない因果な生き物です」

 

☆ ☆

 

人間は《ことば》を使うようになって以降、

《ことば》以前にあって《ことば》で規定することのできない、もやもやした感じや、得体の知れない感じのものが苦手。

なんだかわからない、、ということは、居心地の悪い状態なわけです。

 

新約聖書、ヨハネの福音書は

「始めにことばありき」

という一文から始まりますが、

 

これは、まず、《ことば》で「世界」を規定しました、ということだと、わたしは解釈しています。

 

でも、実際には《ことば》以前に、「存在」しているわけです。わたしたち。

 

その証拠に、ことばを獲得していない赤ちゃんや小さな子どもたちは、ことばに依ることなく、からだを使い、表現します。

 

世界を祝福するような笑顔や、泣く寸前のもやっとした顔、それはすべて100%であって、

この世界のなかにあることを、個別に《ことば》で規定するのではなく、

世界は、自分と陸続きの大きな一枚の布のようであり、自分と世界は不可分なのだ、ということを表しているかのようです。

 

そして、その時間が、とてもとても大切で、その人の一生の土台をつくるのだと、わたしはなんとなく思っています。

 

だから、どうかおとなはその時間を邪魔しないでほしい。

 

ずーーっと前のことですが、年長さんだか、小学1年生だかの男の子に

「今はそういう時代だよ」と言われ、強烈な違和感を感じたことを覚えています。

 

それは、その子が「この時代」を分かってもいないのに、なんでも知ってるような顔をしている、という違和感ではなくて、

 

まだ世界と陸続きであってもいいような年齢の子が、

あっさりと《ことば》によって、布を切り裂いた、という違和感でした。

今思えば。

 

彼の中でいったん規定された「今という時代」が、その後ふたたび「自分」との境界を消して、ひとつになることはできるのでしょうか。

 

「世界」と「わたし」を分断することができてしまう《ことば》。

でも、「わたしさえ良ければいい」と言う人が、決してわたしだけが幸せになることがないように、

「世界」と「わたし」は分けられないものなのです。わたしは世界と地続きなのだから。

 

世界はわたしであり、わたしは世界である。

まるで縫い目も継ぎ目もない、一枚の布のような。

 

《ことば》は便利なものです。わたしたちは、生きていくうえで、ことばによってなにかを規定し、世界からそれだけを抽出してみせることを、当たり前にやっています。そして、それこそが今の社会を成り立たせてもいます。

 

しかし、いのちの根源に迫ったとき、《ことば》を越えて、あふれくる得体の知れないなにかがあることは間違いない。

その「なんだか分からない」居心地の悪さを、わたしたちは、もっと受け入れてもいいのかもしれません。

たぶん、答えはないのだから。

いや、答えは一つではないのだから。

 

ではでは、今夜も素敵な夜を。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

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えん療術所 *イトオテルミー療術師 井上尚子*
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