水俣から考える『命の意味』

こんばんは。
北九州市八幡東区・えん療術所の井上尚子です。

熊本市で開催されている「水俣病展2017」に行ってきました。

県立美術館分館にて、展示があっています。
なかは撮影禁止なので、写真はなしですが、、、うーーん、これは・・・

今回思いきって(ホントに思いきって)「苦海浄土」を買いました。石牟礼道子さんの作品です。
わたしはこれまで避けてました。だって、あまりにも重すぎると思ったから。

ただ、、やっぱり「人間」をまるっととらえる・・・いい面ばかりじゃなく。そして、「いい面」はホントに「いい」のか?
人間の尊厳ってなんなのか?
そんないつもいつも考えている、自分の問いを追究したいと思いました。

午後からは、シンポジウムに参加。
今回、熊本まで足を運んだのは、敬愛する中村桂子さの話を直に聞きたかったから。
中村さんの話はいつもわたしの目を開かせてくれて、自然・人間・科学をつなげる手助けをしてくれる。それも、遠いどこかの話じゃなくて、地に足着いた話として。だから、何度聞いても大好きなのです。

シンポジウムテーマは
「水俣から考える-『命の意味』」

シンポジストは
上野紀行さん(文化人類学)
中村桂子さん(生命誌)
緒方正人さん(漁師、水俣病患者)

司会は
竹下景子さん(俳優)

あまりにも、内容が深すぎて、この感動を伝えきれるか分からない。
でも、わたしの覚書として、以下に記します。
なお、それぞれに講演をされたのち、座談会というかたちで4人でお話をされましたが、どなたのご発言かはわたしにとっては重要ではないので、省略します。

◎水俣病は「現代の病」である。われわれは今、第3の敗戦期にある。それは「安心・信頼の喪失」

◎チッソは戦後の経済成長を支えた、まるで父のごとく権威をもつ企業。誰もがそこに属せば安泰という水俣の地で、そのチッソを告発するのは、まるで父殺しのようなものであった。

◎家族とは、お父さんが働いてお給料をもってくる、そしてそれを支えるだけのものなのか?否。いのちといのちが助け合う場。

◎人を「使い捨て」と首相が言う国。若者たちが不安感を持つのは当たり前。それが、東日本大震災を契機に変わった。多数派について黙るのか、少数派でも警鐘を鳴らす側に立つのか。自分自身を尊敬できる生き方を選ぶ若者たちが増えてきた。

◎生老病死に苦しむ人を助ける姿を見て育った子どもは、全員助かる。助けられる。なぜなら、人は人に助けられるということを学ぶことができるから。「福祉」とは困っている人だけが助けられるわけではないのです。

◎からだのなかでものが「めぐっている」。

◎使い捨てとは「めぐる」を拒否すること。

◎人間は生きもの。多様性がある。多様なものがひとつひとつ一生懸命生きている。さまざまなことがあり、さまざまなものを認めていく。

◎人間は食物連鎖による「いのちの環(わ)」のなかにいる。一員なんです。

◎AIの登場。機械におまかせ→人間として、生きものとして、ぐらつく自信、誇り、気概。

◎「毒」をどうとらえるか?毒を飲まされた、食わされた…も事実。一方、生きものとして「毒をひき取った」というとらえ方も。自然界の生命存在として「共なる苦」をひきとった・・・

◎「共生」という言葉があるように「共苦」という言葉があってもいい。自然界の生命存在たるゆえんです。そこを離れて、人間の存在はあり得ない。

◎いのちは個人が所有できるものではない。わたしたちは生命世界のなかの分身である。「いのちがわたしを生きている」

◎「チッソはわたしであった」(緒方さんのことば)。誰もが加害性と被害性をもっている。福島原発の問題も同じ構造のなかにある。ひとりひとりが考えなければならないこと。

◎「ひとり」という存在に降り立つこと。それは普遍。

最後に、緒方さんが「戯れ歌です」と自作の句を伝えてくださった。

いのちはのちのいのちへ
のちのちのいのちへと
かけられた願いのはたらきに
生かさるる

・・・あまりにも、深くて重くて、そして清々しいこの句に、わたしは言葉をうしなった。

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えん療術所 *イトオテルミー療術師 井上尚子*
【Open】10:00~17:30
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