LOVE&ピース。
こんばんは。
北九州市八幡東区・えん療術所の井上尚子です。
東京都知事選挙、さてさて、どうしたもんでしょう、、、
票割れするのかな?
予想外の展開になるのかな、、、?
わたしなりに思うところはありますが、
都民のみなさんには、熟考の1票を投じていただけたらなあ~と思う。ぜひお願いね。
☆
今日の話題は「風の谷のナウシカ」です。
ナウシカ全7巻の内容自体は、すんごい壮大かつ哲学的なので、ストーリーさえもここに書くのはなかなか大変。
お時間ある方はぜひお読みくださいね。
そのなかでも、わたしが気になる、
もしかしたら《わたししか気にしてない(;’∀’)》ちっちゃな見どころ場面がいくつかありまして、
ちょっと前は、ナウシカに描かれる「喪失感」について書きました。
今日は、「ナウシカは母に愛されなかった子」である、ということについて、書いてみたいと思います。
《母はやさしい人でしたが、窓辺でぼんやりしていることがよくありました。
そんな時の母の顔は まるで知らない人のようでした。
声をかけて わたしを忘れていたらどうしようとこわくて
母が気がついてくれるまで わたしはずーっと待っていました。
母は十一人の子を産み 育ったのはわたしだけです。
他の子は 母の身体にたまった毒を身代りにひきうけて 死んでいきました。
母は決して癒されない悲しみがあることを教えてくれましたが
わたしを愛さなかった》
ナウシカのなかには、自分は母に愛されなかった、自分は母から忘れられる存在だった、という感覚がある。
死んでいった10人の兄姉のいのちと引きかえに、自分は生き延びてしまった、という罪悪感がとても強い。
そこでだ!
わたしの疑問は、そうまで母の愛を感じられないナウシカなのに、
なぜ誰よりも思いやり深く、
敵も味方も、動物や王蟲、そして自分たちを苦しめる腐海そのものさえも愛することができるのだろうか、ということでした。
最後には、巨神兵の母にまでなってしまう。(ナウシカ自身は、愛してないのに愛しているふりをして母になってしまった、、と告白している?)
まあ、そんな愛の塊のようなナウシカ自身の、愛の補給源はどこなのだろうか、ということです。
父王や、城オジや、風の谷の民や、自然や蟲たちがナウシカを愛してくれたので、
母の愛はなくても、ナウシカはよく育った、、と考えることもできます。
以前、紹介した「体罰と戦争」にマイケル・ジャクソンの事例が出てきます。
父親から体罰を受けて育ち、周りのおとなからはスターになるように、と過度の期待を背負わされて育ったマイケルですが、
社会にその恨みをぶつけることなく、
自身がつくる音楽の中で《子どもたちを守ろう》と訴え続けたことは、以前のブログにも書いたとおりです。
彼が、壮絶な育ちを克服して、このような純粋な思いを貫いた背景には、
《音楽》という支えがあったから、なのかもしれませんが、
著者の森田ゆりさんは、このことについては、特に言及していません。
《音楽》が彼を支えた、というのはあくまでわたしの推測です。
つまり、音楽が彼の愛の補給源であった、と。
人は生きていくときに、どこからか愛を得ないと生きていけない。
「まず、愛を与えるのが先だよ」と言われても、最初の1スイッチを押してもらわなければ、愛モードが発動しないんじゃないの?とわたしは考えていました。
だから、いくら他の人がナウシカを愛してくれたとしても
母の愛を感じられないナウシカが、なぜ愛にあふれる言動がとれるのか、とても謎だったのです。
しかし、このことに対して、ひとつの示唆を与えてくれる文章に出会いました。
こちらも、以前紹介しました「チッソは私であった」(緒方正人著)。
ここに、水俣病におかされた側の人々の姿から《命の記憶をとり戻すために》との表題で、次のような文章があります。
《母親のおなかの中で水俣病になった胎児性の子どもが生まれても、
その子に向き合うと同時に、その後も2番目、3番目、あるいは4番目、5番目と子どもを産み育て続けてきた》
《そこには、命を選ばなかったということが現れていると思います。授かるいのちとして向かい合い、育て続けていく。(中略)生まれてきたときにはすでにもう水俣病で、いつまでも首も座らんし、立てない、歩けない、そういう子どもが生まれても、2人目、3人目と産み育てていく。毒を背負って生まれてくる子も受けとめ、抱いていくという生き方は、命に対する向かい合い方、姿勢をものすごく教えている気がします。》
ふーむ、「風の谷のナウシカ」はやっぱりすごいな。
水俣病をはじめとする、現代公害病のことまで内包してるんだもんな。
命を選ばない、という、命との向き合い方。
ナウシカは、10人の兄姉のいのちと引きかえに育っていくわけで、そのことが心の陰にひっかかっている。
でも、いのちを否定されたわけではないのだよね。
逆説的に見れば、
これは、生きることさえも否定された10人の兄姉がいたからこそ、
自分のいのちが肯定されていることを強く感じることができるのではないか、と想像することができるわけです。
それは、母をはじめとする、自分以外の誰かからもらった愛、、というものではなく、
ナウシカ自身が最後の最後に認めているように
《すべては闇から生まれ、闇に帰る。いのちは闇の中にまたたく光だ》
意識していようが、無意識であろうが、
ナウシカのなかには、無数の光があって、
それを光たらしめているのは、闇。
闇も光も、彼女を支えている。
だからこそ、ナウシカは強く、そして優しく在れるのだ、ということができるのかもしれません。
ふうう、やっとここまでたどり着いたぞ。
こんなことをいちいち気に留める人がいるのかどうか分かりませんが、
めんどくさくても、こうやって言語化していく作業が大好きなわたくしとしては、
ナウシカは重箱の隅をつつける、なんとも面白い作品なのです。
ではでは、みなさま健やかにお過ごしください。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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やさしい温熱で、こころとからだをほぐしていくイトオテルミー。
すっきりと軽くなるデトックスマシーン・ゴッドクリーナー。
大量の汗とともに冷えを流すよもぎ蒸し。
どちらも、みなさまの健康の一助となることでしょう。
北九州市八幡東区・えん療術所でお待ちしております。
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えん療術所 *イトオテルミー療術師 井上尚子*
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